朝の8時35分。

飛行機は定刻どおりにシェムリアップを出発。

カンボジア弾丸ツアーの終了です。

短い旅だったけれど,満足満喫。シェムリアップは私の大好きな街となりました。

 

家について現実に戻ると,急に「アンコールワットに行ったんだなぁ」という実感がわいてきて,雰囲気や,石のひんやりした感触,彫刻の感触を思い出しながらまた余韻にひたる~。あ~,ぜいたく~。

旅の興奮,全く冷めず(笑)

 

 

でも,私たちはカンボジアのこと何も知らなかった。

 

内戦があったこと,タイ国境付近では時にまだぶつかりあいがあること,地雷がたくさんあること・・・このぐらいのことは知っていました。

でも,なぜそうなったのか?
みなさんもカンボジアに行ったら思うかもしれません。

「おとなりのタイやベトナムに比べるとまだまだ発展していないし,昔ながらのアジアな雰囲気が味わえていいね~」とか,

「世界遺産がある街なのに道路もガタガタ,何も整ってなくてまたそれがいいね~」とか,「USドルが使えて便利~」とか。

でも,なぜそうなったのか?

 

私が一番驚いたことは,この街の商店,レストラン,運転手などほとんどの人が英語が話せること。子供たちだって,英語と日本語をうまく使いこなして接客しています。

日本語で数字を数えながらおつりを返してくれる子もいました。

お父さんやお母さんに教わっているのかな,内戦があったと聞いたけどきっとその後は英語教育に力を入れているにちがいない。

きっと教育環境は日本と全く違うのに,貪欲にいろんなことを吸収し生かしているんだな,私たちは当たり前にしっかりと教育を受けたはずなのに英語もままならないなんてちょっと恥ずかしい。

そんなことさえ思いました。

でも,違った。

 

 

少し前に公開された向井理さん主演の『僕たちは世界を変えることができない』。みなさんはご覧になりましたか?私はまだです(笑)今,一番見たい映画です。

普通の大学生が小学校を建てるために募金をつのる・・・舞台はカンボジアです。

なぜ,カンボジア?
発展途上の国はたくさんあるのに,なぜカンボジアは自国の力では学校を建てられないのか。
それは,他の国とは違う事情があるからでした。

 

 

「ポル・ポト」という名前を聞いたことがありますか?

世界史を専攻していた私。(でも,近代史は苦手)この名前を聞いて,なんだかいやな悪いイメージしか思い浮かばない。でも,何をした人なんだっけ?

この写真

世界史を取っていた人なら見たことがあるかもしれません。

これって,カンボジアだったっけ?

 

 

ベトナム戦争が激化するころ,秘密裏に北ベトナムを支援していたカンボジアも戦争に巻き込まれることになります。

北を支援していた王は追放され,アメリカはアメリカよりの政権を樹立。

それにより一気に北ベトナム国境付近へのアメリカ軍による空爆が始まります。

物資や食料は不足し,民衆の不安や不満もつのる中,ポルポト派は現在の政権を打倒すべくゲリラ戦を展開。

カンボジア国内は内戦状態に。

しかし,アメリカがベトナムからの撤退を決めると後ろ盾を失ったカンボジア政府の力も急速におとろえ,1975年,ポルポト派がプノンペンを占領。

内戦は終わったかのように見えました。
しかし,ここからが恐怖の時代の始まりです。

ポルポトの理想郷は「貨幣も教育も医療も宗教もいらない世界」でした。

このときにカンボジア通貨は紙切れ同然になってしまったのです。

教育者,医者,僧侶はすべて殺され,それに関する建物や道具も破壊されたり,

他の用途に使われたり・・・。

次第に標的は民衆へ。

ポルポトが信じられるのはもはや知識のない子供だけ。あらぬ疑いをかけては次々と民衆を殺していったと言われています。

800万の人口のうち200~300万人近くが虐殺されました。

そして,ベトナム軍により北に追いやられたポルポト派・・・この双方の戦いにより多くの地雷がばらまかれることになりました。

国が国であるべき基盤をすべて壊し,地雷を残していったポルポト政権。

 

 

みなさん,これはただの歴史の1ページではありませんよ!!

1975年から1979年。

つい30数年まえの話です。私がもしカンボジアに生まれていたら・・・。

私が今回の旅で出会った人々の中にもこの恐怖時代を生き延びた人たちが多くいたはずです。みんなそんなことは微塵も感じさせないほど明るくて,笑顔が素敵だったのに。

なぜ,カンボジアがいまだに発展できないのか。なぜいまだに学校設立さえできないのか。

すべて30数年前に断ち切られてしまったからです。

あれから30年ですから国を立て直す知識人などまだまだ育っていないでしょう。

教育者も場所もありません。教科書やノートなども十分ではありません。

貧困のため学校に行っていない子供たちもいます。

教育よりも労働力として子供たちが必要で学校に行かせていない親もいます。

(そういえば,英語も日本語も使いこなす子供たち。平日なのに,朝も昼も晩もお店にいました)

小学校には入学するものの,卒業する子は少ないといいます。

読み書きができる人たちも少ないそうです。

学校を設立したい!そう思っても,まずは地雷の完全撤去から。・・・撤去して

建物ができたところで教える人がいない・・・。

 

 

でも,「教育」ってなんぞや???

私はあたりまえに義務教育を受けて,あたりまえに毎日学校に行って,学校に行く意味なんて考えたことないけど,行くのがあたりまえ,勉強するのがあたりまえで。日本の今の現状を見ていると,裸で外を走り回って,兄弟で魚を釣って,毎日家族と過ごして・・・そんなカンボジアの子供たちが幸せそうに見える。

 

だから,「カンボジアに学校を!!」なんて私が訴えることはできないし,そんな力がないのは分かっています。

でも,日本でもカンボジアでもどこでも子供たちには子供たちの夢があって,それを実現できるかできないかは自分しだいであってほしい。

国や政府の事情ではなく,自分で決められる世の中であってほしい。

そのためにはやはり「教育」は必要なのかもしれません。

 

じゃ,私に何かできる?
っていうか,「何かできる」とか「助ける」とか「支援する」とかそんな言葉がそもそもしっくりこないのですが,実際に学校を設立している人,寄付をしている人,現地で教育に携わっている人,ボランティア活動を行っている人・・・きっといろいろな問題に直面しながら日々カンボジアの人々と向き合ってらっしゃる・・・ほんとうに頭が下がります。

 

私のようにほとんどの人はきっと日々の生活でいっぱいいっぱい。

何もきっと行動はできないけれど,微力ながら誰かに伝えることで何かが少しでも変わればと思いこのブログを書きました。

私にはまだ子供はいませんが,今までは子供がうまれたら幼稚園にいかせて,小学校にいかせて,それがあたりまえ。何の習い事をさせようか,お受験は・・・?

なんて必死に考えたかもしれません。

幼稚園で園長をしている兄がよく言っています。

「最近の子供たちは,自分の国に誇りを持っていない。学べることのありがたみが分かっていない」と。

そうですね。今回の旅を機に自分の中の「教育」に関する概念は少し変わったかもしれません。学ぶことが楽しいと伝えられるような親になりたい。

 

映画のタイトルのように,私には世界を変えることなんてできないけど,私がそこから何かを学び取ることができるのではないかと,今,思っているところです。

いろいろ長々と書きました・・・。

最後に教育とはちょっと離れているかもしれませんが,カンボジアの子供たちが直面している地雷の問題も知っていただけたら。

よかったら,ちょっとのぞいてみてください。